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或る投票の話と、『NO選挙 NO LIFE』の話
或る投票の話。
唐突だけど選挙の話をしよう。特段の候補・政党に肩入れするものではない。
市、県、国と規模を問わず選挙が近づく度に「必ず投票しろ」と父に口うるさく諭され続け、20代の頃は無記名の時もあり、30代には何となく選んで、40代は「当落を問わず投票者はウォッチし続ける」くらいの気持ちで投じるようになった。“候補推し”ということになるのかな?
そうして、とある市議会議員選挙の投票日。数十人の候補から誰に投じるか? 推し候補選びに候補者一覧とマニュフェストに目を向け悩んでいた。そして選んだ推し候補は、市会議員経験なしの若者。特に強力な支持母体があるわけでもなく、若さを武器に市政を変えていく。そんな期待を抱かされた。
――のだが、投票所へ向かう直前、別の候補を推すことにした。
若者のことをもっと知ろうと思いSNSを見ると、あれ?思ったより地元に根づいた選挙活動が見受けられない。あれ?この人、別の市でも立候補して落選を繰り返してない? あぁ、この人は市政云々ではなく、政治家になりたい自我が選考していないか。ごめん、そういう人は推しても地域に何か還元される結果が見えてこない。
その日の夜、若者は僅か2票差で落選した。
もしも初志貫徹で投票していたら1票差、他に同じような有権者が1人いたら同率、2人いたら逆転していたかもしれない。市町村規模の議員選挙では、こうした僅差は結構あるのだろう。
この時ほど、自分の行動の重みを実感したことはない。
行動は過程を経て結果に至るが―
人はよく、物事の過程よりも“結果”に熱狂する。その一つが選挙だと思う。
誰に投じるのか? なぜ投じるのか? 自分の票を自分で考え生かすための思考を停止し、20時ちょうどに報じられる当落予想からテレビに釘付けになる。
候補者や政党の悲喜こもごもに密着するものの、矢継ぎ早に結果だけを盛り上げ打ち上げ花火のような熱狂を演出するテレビの手法には、正直いつも疑問を感じざるを得ない。
投票は一人ひとりに与えられた権利。その行使も自由。
であれば、折角与えられた権利。結果の熱狂の間に、地味でも“過程”に目を向けて、上手に行使することを考えても良いのでは。
『NO選挙 NO LIFE』の話
フリーランスライターの畠山理仁氏に迫ったドキュメンタリー『NO選挙 NO LIFE』は、「すべての候補者の主張を可能な限り平等に有権者に伝える」という氏の候補者への取材を通して、選挙の過程、つまり候補者の生き様を知ることの面白さと意義深さを教えてくれる映画だった。
映画では、2022年7月の参議院選・東京選挙区に立候補した34人一人一人と接触、取材し「週刊プレイボーイ」に寄稿している。さらっと書いてしまったが、これを選挙期間中にこなし入稿、投票前に発売される雑誌に間に合わせるのは限りなくデスワーク。本人もそのリスクを承知の上で取材するのは、記者としてのポリシーであり、選挙を、候補者に寄り添うことを楽しんでいるからなのだろう。
その様子が特別営巣としてYouTubeで公開されている。
選挙の都度、不思議な政策、ポリシーにキョトンとすることがある。私たちがそう感じる候補にも畠山氏は先入観なく等しく接していく。そのプロセスこそ、私たちが普段無意識に避けている、停止している思考を目の前に突きつける。
停止した思考を動かし、自ら前に進む―。たとえ国政選挙では儚い一票であっても、何かを変えるドリームチケットになるのかもしれない。この映画は、そんな希望を抱かせる。